何故、私が目に見えない神様を信じ、信仰の道を歩むのか
- 5月1日
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何故、私が目に見えない神様を信じ、この世の物質的な豊かさを求めるよりも心の豊かさを求め悔いない80年の人生を生き、心から感謝することが出来ているのかについて証しをしたいと思います。
目に見えないものは信じないと言う方がおられますが目に見えないものは信じないとすれば勿論、宗教は成り立ちませんが科学も成り立たないのではないでしょうか。
目に見えない法則を仮定し、それを実際に実験し試して科学は発展して来ました。ニュートンは重力があると仮定し、リンゴを落とす実験をしたと言われているようにです。
りんごが落ちる様子は目で見えますが、万有引力の法則そのものは見えません。
同じように宗教においてもそれぞれ目に見えないものを信じ、願いがかなったと体験したことにより、その宗教を信じるのではないですか。
私が信じている父母なる神様は目に見ることはできません。私がなぜ、父母なる神様を信じて来たのかと言えば父母なる神様から私に恩恵(人によればご利益というかもしれません。)を与えてくれた実感があるからです。それが祈りであり、原理の教えの実践によって神様によって与えられるからです。
私は自分が利己的人間であり、他の人の為、良いと思うことを行ったとしても見返りを心で要求する自分に、なぜ、無条件で他のために生きられないのかと感じて来ました。良いことをして周りの人がご苦労様と言ってくれると素直に受け入れず、ご苦労様と言うなら自分で行ったらどうなのかと思う自分がどこか歪んでいるのではと人を裁く自分に違和感を感じて来、良いことを無条件で出来る人間になれたらと感じて来ました。
聖書のルカ伝6章41節に』『41 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目ある梁を認めないのか。42 自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。』とイエス様が言われることでそうだ、まず自分の中にある梁を取り除くことが最も最初にすることであり、梁とは自分に神様の愛がないことであると悟りました。神様の愛は愛されてこそ、受け継ぐことが出来ると自らの不足する愛を神様の愛で満たしてくださいとの祈りを続け、神様によって梁が取り除けられるのを体験して来ました。人を憎み、人を嫌い、人を避けるのは相手の問題である以上に自分自身の愛の不足であることが分かり、神様の如何なる人をも差別なく愛する父母の愛を祈りを通し受け継ぐ体験を通し、自分の人格が変えられて行きました。私の求めることは裕福になる事でも、名誉を得る事でも、地位を得る事でもなく、自分の自己中心的な人格を変化できることこそが最も大きな恩恵であると祈り、求める時にその恩恵を受けて来た60年間の信仰生活でした。自分が神の愛によって変えられる体験をし、欧米、南米で20年近く生活し、人種を超え、人類は兄弟であると感ずる奇跡を感じて来ました。文鮮明総裁ご夫妻のように神様を細胞の一つ一つで感ずるまでには至っていませんが生涯、神様の愛を自分に引き継ぐ人生を生きられることに無限の喜びを感じ、日々努力しています。


