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一般社団法人
人材育成協会
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危機に直面した時の我々の姿勢
危機に直面した時の我々の姿勢:創世記45章5-8節から 人材育成協会の目指す青年像 ヨセフの物語を知っていると思います。ヨセフはヤコブの11番目の子で父親ヤコブから愛され、兄たちから妬まれ、奴隷として売られ、また冤罪で牢屋に過ごし、人間的に見れば散々な歩みを13年も続けました。 しかし決して自分の運命を呪うことも、自分を奴隷として売った10人の兄をも恨むこともありませんでした。神様が用いる人間はいかなる環境の中にも呪うことも恨むこともなく、8節で「私をここに遣わしたのは、あなたたち(自分を妬みから奴隷に売り飛ばした兄たち)ではなく神です。」と語る心の姿勢を持っていました。 いかに困難があり、裏切られたと感じたとしてもその背後に神様の意図があることを感じ、決して否定的に、ものごとをとらえない典型的な神の愛する人間がヨセフでした。 詩編105編17編ー19編にヨセフの事が書かれています。「奴隷として売られたヨセフ,主は人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された。主の仰せが彼を火で練り清め、み言葉が実現するときまで」と。ヨセフは、自


キリスト教がローマ帝国の国教になったことから私達が学ぶこと。
キリスト教がローマ帝国の国教になったことから私達が学ぶこと。 ローマ帝国に起こった疫病へのキリスト教徒の対応がキリスト教に対する偏見を払拭し、信頼を獲得する事になった。当時の疫病には治す薬も無く、非常に多くの人々が死に、イタリアの多くの市や、村は見捨てて顧みられず、廃墟と化してしまうほどでした。親族の誰かが感染すれば、恐れて看病もせず他の地へ逃げて行きました。 しかしキリスト教徒はイエス様の弟子として死を恐れず、看病をし、多くの異邦人が回復し救われて行きました。看病をしたキリスト教徒も疫病に罹り生命を落としながらも、喜んで殉教して行く姿を見、救われた異邦人がキリスト教徒になリました。 マタイ伝の25章40節の私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。のイエス様の言葉を生命をかけ実践しました。 疫病が蔓延する中での彼らの行ないはローマの異邦人に取って考えることすら出来ない事でした。友の為、生命を捨てる愛の実践が異邦の人々を自然とキリスト教に帰依する道を拓きました。 他のために尽くす事が心からの喜びとなり無


人材育成協会は民族、国家、宗教の壁を超える人材の育成を目指しています。
8月12日 Xへの投稿 人材育成協会は民族、国家、宗教の壁を超える人材の育成を目指しています。世界平和の実現はそのような壁を撤廃できる人材の育成無くしては出来ない困難な道です。 私も長い間、海外にて活動、アメリカにて半年、ヨーロッパに15年、そして南米での奉仕活動に15年ほど関わり、その経験をもとに一般社団法人を立ち上げました。 歴史も文化も言語も異なる国が如何に理解し合っていけるのかが大きな課題でしたが、私の尊敬する文鮮明総裁から他の民族の人と接する時はパンタナール精神で成したらよいと指導されたことがあります。 パンタナール精神とは『丸ごと飲み込む世界がパンタナールです。ゆえにパンタナール精神とは、良いものも悪いものもそのまま飲み込んで消化し自分が生きることが出来る様に影響を及ぼしながら大きくなっていくことです。』 特に私が奉仕活動でパラグアイの辺境の地、チャコにおいてインディヒナの人と交流する時、彼らの村は貧しく3食食べることもできない人もおり、自分の名前を書くこともできない人も多く、貧しいがゆえに私が洗って乾かしていたTシャツをかって


大切な隣人の為に生きるため、自分自身をより高め、育成することを目指し、人材育成協会を始めました。
8月8日、Xに投稿しました。 大切な隣人の為に生きるため、自分自身をより高め、育成することを目指し、人材育成協会を始めました。 私はマタイの22章の『自分を愛するように、隣人を愛せ』を日々実践しようとしています。私が私自身を心から愛せる人間になるため、何時も単純な事を考え、祈り、朝を出発します。 私の最も近くに居る隣人、それは私の妻で、毎朝、朝起きたら妻のために何が出来るかを考え、実践します。今日は火曜日、ごみの収集日なのでごみを捨てよう、また妻は少々、足が弱くなっているので掃除機で掃除も難しいので私が掃除を行おうと、とにかく妻が喜ぶことをまず、行うと心が健康になり、次に何をすることがより良き社会のためなるかと日々、自分の体力との兼ね合いですが考えて行います。 人材育成協会はそのような方々が集まり、日々実践し、特に何をすることがより良き社会を作り事になるか、意見を交換して行くことを願っています。 関心があれがホームページもできましたので見てくだされば感謝です。 人材育成協会は今年5月に法務省に一般社団法人として登録しました。私は今、81歳と


人材育成協会は、人間の人格形成が第一義であり、社会に貢献できる人材の育成を目指し設立しました。
人材育成協会は、共産主義を代表とするように社会の体制を変える事により平和世界を実現しようとするのではなく、人間の人格形成が第一義であり、その事の実践を成しながら平和世界の実現に対しても関心を持てるようにと情報を発信し、社会に貢献できる人材の育成を目指し設立しました。 今回、8月2日、中国で法輪功が受けている迫害のドキュメンタリー映画を上映することになりました。 1992年、気功を通して心身の健康の向上をとはじまった法輪功が中国の伝統文化に沿っていたため、7年間で7000万人となり、当時の江沢民国家主席は共産党政権の脅威になると『『法輪功学習者を消滅させる。』と1999年6月7日、命令を下し、邪教として迫害を受け、27年になります。法輪功の方々の人権だけでなく生命までもはく奪する蛮行を繰り返し、遂には彼らの臓器を生きたまま収奪し、臓器移植に用いています。 私の尊敬する韓国の宗教家、文鮮明総裁は次のように述べています。 『共産主義と言う思想が行きつく先は人間を虫けらのように殺す。 もし誰かが、人権について語りたいと思うならば、まずその人は


私は文豪トルストイと同じ悩みを持っていました。
7月30日Xへの投稿 私は文豪トルストイと同じ悩みを持っていました。その悩みの解決の道を示してくれたのが原理の堕落論の内容でした。 小学生の頃、家の前の用水を竹ぼうきで掃除をしている時、同じ用水を使っている隣人が邦ちゃんご苦労様と声を懸けて来た時、感じたことです。 ご苦労様と声かけてくれた人に感謝の思いを持つ代わりに、ご苦労様と言うなら何故、声を懸けるだけでなく自分も用水の掃除をしないのかと裁きの思いが湧き、何故、そのような思いが出てくるのか、何と自分の心がいじけているのかと感じさせられていました。子供の頃から自分の心の在り方、感じ方に関心が私はありました。 なにか良いことをしても常に見返りを求める自分があることに違和感を感じ、出来れば見返りを求めないで良いことのできる人間になりたいと感じて来ました。 自分の心に沸き起こってくる2つの思いがあり、その事がより鮮明に表れて来たのが思春期の頃からでした。異性に対する感情の中に明らかな2つの心があり、利己的な情的衝動(邪心)と利己的な情に支配されてはいけないとの心(本心)との葛藤が自分の内面


神を否定する共産主義は創世記の蛇の役割を相続した思想である。
Xの投稿(7月19日) 神を否定する共産主義は創世記の蛇の役割を相続した思想であると考えることが出来るのではないでしょうか? 今日まで失楽園の内容については多くの解釈がなされて来ました。その事については次のXで投稿しますが、まずは原理での説明の要点について話してみます。 アダムエバが神様が創造された最初の男性と女性であり、その2人から人間の歴史が始まったと考え、なぜ、彼らが神から離れ、エデンと言う喜びを意味する園から追放され、今日までの世界、分裂と闘争の世界を築いて来たのかについて説明した画期的な内容が原理講論堕落論として解明されている。 アダムの家庭に起こったことが地球上のあらゆるところで起こり、時代を超え、今日に至るまで、時間と空間を超えて起こっていると知ることは驚嘆に値します。 では、何故、神によって創造されたとされる人間が真の愛の神様から離れ、神に反逆するようになったのかを明確にしなければならない。 聖書によればエバが蛇によって誘惑された。その時、蛇がもし善悪の果実を取って食べるなら神の如くなると人間が本来、求めて来た神を親として子である


現代の日本はソクラテスを死刑にした時代と何ら変わらないのか?
現代の日本はソクラテスを死刑にした時代と何ら変わらないのか? 家庭連合の解散の裁判を通し、家庭連合に所属する私も責任を感じ、教会も反省する所が多々あると感じますが、法人解散という法人の死刑の宣告が信者の知る権利を剥奪された非公開裁判で成され、信者の献金によって献堂した教会、資産の没収は行き過ぎではないでしょうか。 紀元前347年のソクラテスの死は、「民主的手続きがあっても、その中身が理性的で公正かどうかを常に問い直さないと危険になる」との警告であり、民主政は衆愚政治に陥り、力ずくで人々を従わせる僭主(せんしゅ)の支配に行き着くと2400前にプラトンが予言しました。 岸田元首相の自己の権力の保全と左翼的思想を持つ弁護士、そして魔女狩り的に一方的な情報のみを流す大手マスコミにより、理性的で公正かどうかを常に問いただすこともなく、法人解散をなした日本の現実に、今からでも家庭連合解散が公正な判断であったのかを皆さん、一人一人に検証してもらいたい。 現代は偏見を持たなければ、公正かどうかを問い直すことが可能になる情報をSNSで知ることが出来、一人一人が判断


心の目を開いて謙虚に見れば真実が見えてくる。
2026年6月23日Xへの投稿 思い込みと偏見で判断することなく、心の目を開いて謙虚に見れば真実が見えてくる。 聖書の創世記は3500年前に書かれた書物で日本は縄文時代後期~晩期で文字はありませんでした。聖書の創造の物語やエデンの園の物語を荒唐無稽と現代人の感覚で判断することは思い込みであるかもしれないとの謙虚な心で聖書を見ることが必要です。原理の堕落論について考える前に聖書の記述(3500年前に書かれたと考えて見る必要があります)の驚くべき事実を取り上げて見ます。 ① 7日間で創造を完結された。7が完結の数と言う事実を自然界で発見できます。人間の妊娠期間は280日(7×40)犬、猫、タヌキ、狼なども皆同じ63日(7×9)鶏の卵のふ化は21日(7×3)ネズミの妊娠期間は28日(7×4)ニジマスの卵のふ化は水温10度で35日(7×5)、スズメ、つばめも14日(7×2)である。 ② 人間は創世記2章7節に『ちりで人をつくる』と書かれているように人間の体は約80%が水、あとはタンパク質やカルシュウムで出来ており、人体を構成している元素はすべ


死後の世界があるかどうかは誰にとっても深刻な問題ですが、多くの人は考えること自体を避けています。
6月16日Xに投稿 死後の世界があるかどうかは誰にとっても深刻な問題ですが多くの人は考えること自体を避けています。人間は初めは母親の羊水の中で育ち、狭い母親の母体から離れ、空気を吸い人生を始めます。地上での人生を始めるには母親の羊水の中で苦しくても手を足を頭を成長させ、地上生活が順調に出来る準備をします。地上生活では他の動物と異なり、ただ肉体的に健康を維持し、子孫を繁殖し、子を得る事だけでなく、精神的な心の成長を遂げる(その事を霊人体の成長)生活をし、永遠の霊界での生活の準備をしていくことを宗教は強調しています。人間は羊水の水の中で、その後、陸上で空気の中で育ち、最後に霊界の要素である愛を育てて生きて行くと原理では説かれています。人間の3段階に渡る成長過程です。地上で生きる私たちは地上生活の後の世界、霊界での生活を準備しなければなりません。 霊界の存在あることを示す、歴史的な事例を幾つか挙げて見ます。 ① 私は大学で化学を学び有機化学の始まりが夢で知らされたとの事で驚きました。有機化学の始まりは環状の化学式を持つベンゼン核の分子構造の発見か


人間は願うと願わないとに関わらず、永遠に生きる存在である。
Xへの投稿 6月11日 人間は願うと願わないとに関わらず、永遠に生きる存在である。 唯物論者への警告!!真実は思い込みで判断せず、自ら検証しましょう!! 1コリント13章 神の愛は永遠です 。 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。と聖書の中でパウロは語り、エレミヤ書31章前半から、「永遠の愛をもってあなたを愛した」 親なる神様が永遠であれば、子たる人間も永遠であり、人間は肉体だけでなく霊人体という体があり、人間の死後も霊人体は霊界にて永生すると原理で教えております。 私は小さい時から普通の子供とは違っていたと母は心配していました。まだ、小学校に入るか入らないかの年齢の時、夜中に起き上がり夢遊病者のように外に出て、近所の神社に行き、神社の鈴の鐘を鳴らし、家に戻りそのまま寝ることがあったそうです。私の家にも仏壇と神棚があり、神棚を見ると霊のようなものが2人、見えることがあり、目を開けても目を閉じても見えると母に言っていたそうです。 小さなころから母から愛された私は母とは永遠に一緒に


「三つ子の魂百まで」は「幼い頃に形づくられた性格や気質・癖は、大人になってもなかなか変わらない」という意味のことわざです。
6月4日(木) Xへの投稿 「三つ子の魂百まで」は、 「幼い頃に形づくられた性格や気質・癖は、大人になってもなかなか変わらない」という意味のことわざです。その諺は人間だけに当てはまる内容で動物には当てはまりません。動物は本能が備わっており、本能のままに生存と繁殖を繰り返して行くことが自然です。人間の肉体も本能によって成長し、完成して行く点では他の動物と変わりはありません。 しかし、人間の心の成長、宗教的に言えば霊的成長は自動的には成長せず、人間がどのような子供時代を送り、その後、どのような考えを持ち、自分の責任を果たし、努力するなかで心の成長はなされていき、それこそが人間の万物の霊長たる所以です。 人間を見ると肉体的には他の動物より劣り、生まれてすぐ自分の足で立ち、自分から乳を求める動物と比べ、全面的に親に依存しなければ生存すらできない未熟児として生れて来ます。 その3歳までが人間の精神的成長の基礎をつくる極めて重要な期間であることを‟三つ子の魂100まで“と言われたのだと思います。 人間は神の子女として生れ、神様の本質なる真の愛


神様が人間を創造したのが6日目であると聖書は書かれています。
6月1日 Xへの投稿 今日は6月の最初の日、朝祈りながら6数について考えました。神様が人間を創造したのが6日目であると聖書は書かれています。生めよ、増えよ、地に満ちよと喜びで祝福を与えた人間、アダムエバが神の子女として生れました。他の被造物とは異なり、取って食べてはならないとのみ言を成人まで守り、神の祝福を成し遂げなければなりませんでした。しかし、アダムとエバは喜びの園と言われたエデンの園から追い出されたと聖書には書かれています。 人間を神の子として創造した親なる神様の喜びの叫びが子を追放しなければならない塗炭の苦しみから歴史は始まりました。6の数字を思いながら祈る時、神様の叫びが聞こえてきます。帰れ、我が子よと。しかし、歴史上でその事を感じたのは2000年前のイエス様だけでした。イエス様は私を見し者は神を見た者と言われるほど神様の心を感じたメシアでした。 イエス様は愛する弟子からも裏切られ、十字架で死に至る時も許すことが出来たのは神様の人類歴史の歩みが如何に裏切られても許し、救いの道を探して来られたかを知って居られたからです。十字架につけたロ


真理を自分の座右の銘として毎日、実践する事が人格形成の要ではないでしょうか。ために生きるとは誰でもが納得できる真理です。
まだまだ悟りの鈍い自分で反省する事ばかりですが、とにかく毎日、ために生きるには何をすべきかを考え、出来ることを実践して行こうと歩んでいます。柴沼記。 2026年5月27日 Xへの投稿 誰もが納得できる真理を自分の座右の銘として毎日、実践する事が人格形成の要ではないでしょうか。ために生きるとは誰でもが納得できる真理です。毎朝、起きると朝の祈りの中で、私とともに55年間、歩んで来てくれた最も身近な妻に対し、何が出来るかを考え、実践することに努力しています。妻も年を重ね、足も弱くなり、ゴミ出しをするにも難儀な年齢となっているので今日は火曜日だからゴミ出しをしなければと、また、家の掃除で重い掃除機を使うことも簡単でないのでまだ私は元気なので掃除をと、家の掃除は私が担当することになっています。 一方、妻は私が社会性に疎いので出かける時は常に服装には気を使ってくれます。今日はその色の背広でないほうがとか猫の毛がついている背広をきれいにし、私が恥をかかないようにと。些細な心遣いで愛情を感じ、日常生活に喜びをもたらし、大きな力の源になることが年を重ねる中でより強


文鮮明先生から言われた言葉
文鮮明総裁はかって私に『君は器用な男だ』と言われたことがありました。手先の器用でもない私をそのようにおっしゃったのは工具を使って何かを作り出すと言う事ではなく、私たちの霊的生活での工具はみ言であり、原理と言う真理を使って自分と環境を作り上げていくことを意味する事であったのではと感じています。 授受作用は力の源泉であり、授受作用が順調であれば成功への道も開かれて行くことは昔から『家和して万事なる』と言われているように誰でもが知っています。 私を主体とする時、その対象に父母がおり、妻がおり、子供が居ます。上、横、下の三つの対象との間で授受作用が上手に出来ていれば家が和し、幸せな家庭になります。 同様に社会生活の中、上司がおり、同僚がおり、部下と3つの対象との間がどの様な関係性を築いているのかが成功の秘訣であると私の場合は教会生活の中で、何時もそのことを考えて来ました。 私には何時も、真の父母様を代身する上司、また同じ役職にいる同僚、そして私の下で一緒に歩んでくれるメンバーがおり、その3つの対象との間の授受の関係はどうなのかと。上司との授


何故、私が目に見えない神様を信じ、信仰の道を歩むのか
何故、私が目に見えない神様を信じ、この世の物質的な豊かさを求めるよりも心の豊かさを求め悔いない80年の人生を生き、心から感謝することが出来ているのかについて証しをしたいと思います。 目に見えないものは信じないと言う方がおられますが目に見えないものは信じないとすれば勿論、宗教は成り立ちませんが科学も成り立たないのではないでしょうか。 目に見えない法則を仮定し、それを実際に実験し試して科学は発展して来ました。ニュートンは重力があると仮定し、リンゴを落とす実験をしたと言われているようにです。りんごが落ちる様子は目で見えますが、万有引力の法則そのものは見えません。 同じように宗教においてもそれぞれ目に見えないものを信じ、願いがかなったと体験したことにより、その宗教を信じるのではないですか。 私が信じている父母なる神様は目に見ることはできません。私がなぜ、父母なる神様を信じて来たのかと言えば父母なる神様から私に恩恵(人によればご利益というかもしれません。)を与えてくれた実感があるからです。それが祈りであり、原理の教えの実践によって神様によって与えられ


原理の考察①
真理であると確信したものを自分の生活において実践し、真理と実践が一致した時、真理として証明されるのだと思います。 原理の考察① 真理は必ず現実の生活に密着し、人間を幸せにするものであると私は信じています。 そのため、学んだ内容は自分の生活にどのように生かし、当てはめるのかを考えるにとても楽しく喜びを感じて来ました。例えば神様は陽性と陰性を持つ陽陰の2性々相であるなら、人間は神様に似て同じように陽も陰も兼ね備え、それを愛によって実践するようにしなければと考え、陽の性格、明るく、積極的な性格を開発し、それによって自分の生き方とともにその性格がどの様に周りの人に喜びを与えられるかを考えるようにしました。 しかし、人間はどんなときにも陽気であるとすれば人間としての深みや周りの人が悲しみに遭遇している時にはかえって不快な気持ちにさせることになるのではないですか。そのような時には神様の陰性に似て、深く物事を考え、相手の事を思いやるやさしさが必要になるのでどのようにしたら神の陰性に似た性格を持つことが出来るかを瞑想をし、人々の心を理解できる人間にならなけれ


私の行ってきた原理講義
私が行って来た講義は相手を洗脳するために準備し、行ったものではないと思います。 私は長い間、講師として教会で講義を行って来ました。講義をする時、いつも思い出すのは大学の授業での体験でした。大学教授が講義の前、30年来用いているよれよれの茶色くなった大学ノートを出し、淡々と学生を見ず、黒板を見て、講義をする様子でした。学生に是非とも伝えたいとの情熱も余り感じられませんでした。 原理の講義をする場合は伝えたい内容を講義前に再確認するため、講義を聞く受講者の事を考えながら新しい講義案を毎回、作成し準備しました。その上で講義をする前に新しく作った講義案を思い出し、祈り乍ら神様の前で講義をし、神霊的にどこを強調することが神様の願っている事かと再確認します。講義をする時、天が願う神霊と真理が受講者に正しく伝えられるようにと思い準備し、決してマンネリ化した講義はしてはいけないと心に決めて壇上に立ちました。 そのような姿勢は私が全国を巡回し巡回師となって説教をする時も初期に文先生から教えられた姿勢を守れるようにと歩んで来たように思います。講義が終わる


マインドコントロールについて
誰彼にマインドコントロールをされ、60年の道を新鮮に歩むことは出来ないと思います。私を変えたのは真理を知った事によるマインド(意識)の変化とともに、それ以上に原理で語られる神様の心情やイエス様の心情、そして歴史の中で歩んで来たノア、アブラハム、そしてモーゼの困難に立ち向かう生き方によって、私のうちに秘められた本心が納得したためであると思います。宗教的思想によってマインド(意識)が変わることがあってもそれだけでは自分の生き方が変わったとしても長くは続かないはずです。私自身が19歳から現在81歳までの60年を超える信仰の道を続けて来られたのは心の豊かさを求め、日々歩んだからであると感じています。私はかなり合理的な人間で少年時代に母が食事に心を込め、美しい食卓を準備しても、食事は食べてエネルギーになるだけだからそんな必要はないのにと考える情緒の無い人間でした。食事はエネルギーを得るための物であると。 教会に入って活動するようになっても何故、人と話して無駄な時間を過ごすのかともっとその時間を勉強し、知識を高め、明日のゲストの講義に時間を費やした方がいいの


文鮮明先生御自身の証し
1970年10月13日水澤里にて 涙の信仰生活結局は、この歴史のすべての犠牲は、私一人を救うためのものであったことを実感できる、自分の人格を持たなければならない。そういう歴史を見た場合には、涙なくしては見詰めることができない。統一教会の食口は、涙の切れる生活であってはいけない。 一週間、だれも自分を相手にしなくとも、自分なりの信仰生活ができなければならない。神様と向かい合った時、胸が裂けるほどの悲しみを感じる。こんな私を頼りにせざるを得ない神様は何とかわいそうか。つらい歴史を担当してきた神様の心情を、私たちは慰めなければならない。神様には昼も夜もない。何千年も続けて失敗を繰り返しながら後退できず、ずっと摂理を続けてこられた神様はいかにかわいそうか。 涙が切れている統一教会の兄弟は、食口ではない。目がはれて、太陽を見ることができないほど泣き続けたことがあるか。本当の孝行息子なら娘なら、一言の言葉で神を泣かせる。また神の一言で、わき上がる涙を抑えることができない。いつ自分の感動的一言で、神が泣いたことがあったか。神と抱き合って一体となって感謝し合った


私が体験した万物復帰
私が体験した万物復帰は神様の愛を感じ、人々の優しさを感じ、また万物の尊さを身をもって感ずる感謝の実践でした。 私の初期、開拓生活は自分で糧を自分で得ることが原則でした。天の道を歩む者は色々な経験を積み、まずは僕の僕からの生活が原則でした。 毎日、朝は5時に起床し、朝拝を行い、朝食は前日、パン屋さんで提供してもらったパンの耳と八百屋で頂いた少し痛んだ野菜で済まし、午前中は廃品回収業者に行き、リヤカーを借り、各家庭を訪問し、古紙や空瓶を提供して貰うことから始まります。それで得たお金でアパートの賃料と伝道に必要なパンフレット、講義のための黒板、チョーク、メモ帳を準備します。 午後からは通常は大学に行き学生伝道をし、夕方には繁華街で伝道幕を立てての路傍伝道です。夜は訪問するゲストがあればゲスト訪問をし、ない時は聖書と原理講論の勉強をし、ゲストの為の備えをします。寝る前は一日を思い起こしながら祈りを捧げ、神様の導きを感謝して休みます。 振り返って見れば大学に行っている時は親の支援を受け、朝と夕食はすべて母が準備してくれたものを食べ、昼食は大学の学食で、


み言葉の理解は正しかったのか?
万物復帰の言葉の独り歩き。万物復帰とはお金を集め、教会に捧げることであるかの如く理解する教会内外の人がいるが本来の意味がなんであるのか? 万物復帰の真の意味 人間が堕落しなければ神様が自然と分かった。:蕩減復帰の道を歩む必要はない。 万物復帰も必要ない。 ロマ書8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。 人間は堕落することにより万物以下に成り果て、兄カインが弟アベルを憎しみ、恨み、嫉妬心で殺すまでになってしまった。そのことを聖書はロマ書で本来の位置から離れ、万物を主管(愛し治める)ことが出来なくなったと書かれている。 万物以下に陥った人間が人間の喜びの為、神が人間創造前に子としての人間が喜びで幸せに過ごせる環境としてエデンの園(喜びの園)を創造され、創造した万物を材料として人間の肉体を創造した。しかし、肉体までサタンに主管されてしまいました。 そのため、神が再び人間の肉体を再創造するためには堕落した人間であっても神が万物創造の時、完全投入したように、神様の願いにそって万物を神に捧げることが万物復帰の


文鮮明先生との最初の出会い
文先生は戦前、早稲田大学にて電気工学を学ばれ、1943年9月に韓国に帰国した後、1965年1月28日に日本に来られました。私は2月2,3日に大阪でお会いしました。当時、まだ開拓時代であったので関西の信者は40名余りであったと思います。 私は文先生がイエス様のような方と想像し、神秘的な方ではと思い、白い衣を着て来られるのではと思っていました。しかし、名古屋から車で到着された文先生は普通に背広を着て居られ、外的には何ら神秘的ではなかったことに却って強い印象を受けました。小さな2階建ての家屋を教会として使っており講話が終わると、2階に文先生はお泊りになり、私たちは1階で寝ておりました。夜中に2階から誰かが降りて来られたと、私が目を開けて見ていると文先生がステテコ姿で一階のトイレに行かれました。ますます私自身が描いていた神秘的な方ではとの先入観が瓦解したので良く覚えています。 文先生は外的に特殊な服装をし、現れることはそれ以後もありませんでした。外的な様相は全く我々と変わりませんでした。 しかし、話し始められると熱を帯び、汗を流しながら真剣でした。


私自身の決断でなした信仰生活
家庭連合信者は洗脳されていると考える人もおられるかもしれませんが、私の入教の動機とその後の歩みは自らが決断しなければ歩むことのできなかった60年でした。 家庭連合に入信する前。(1964年11月頃) 世界の難病で悩んでいる人の薬を開発する夢を持ち、早稲田大学理工学部応用化学科に入学。当時、学内は安保闘争で荒れ、世界平和を叫びながら怒号で覆われ、誰しもがどうしたら平和世界が出来るかを考えておりました。その時、私自身は闘争で平和が実現できるはずがなく、イエス様のみ言で人を裁くな、まず自らの心の葛藤を解決しなければと思って学生生活を送っていました。しかし、その課題は余りにも困難で、イエス様のみ言に従う生活は不可能ではないかと葛藤している時、大学の理工学部の掲示板に『イエスキリストの十字架の限界と再臨の必要性』についての集会を行うとの原理研究会の案内が出ており、それに関心を持って集会に参加した事が導かれるきっかけでした。 (1964年11月14日) 何故、文鮮明先生を再臨主と信じたか。 ①私の抱いていた疑問が明確に答えられた。 A)神様はなぜ、全能である
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