私の行ってきた原理講義
- 4月1日
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私が行って来た講義は相手を洗脳するために準備し、行ったものではないと思います。
私は長い間、講師として教会で講義を行って来ました。講義をする時、いつも思い出すのは大学の授業での体験でした。大学教授が講義の前、30年来用いているよれよれの茶色くなった大学ノートを出し、淡々と学生を見ず、黒板を見て、講義をする様子でした。学生に是非とも伝えたいとの情熱も余り感じられませんでした。
原理の講義をする場合は伝えたい内容を講義前に再確認するため、講義を聞く受講者の事を考えながら新しい講義案を毎回、作成し準備しました。その上で講義をする前に新しく作った講義案を思い出し、祈り乍ら神様の前で講義をし、神霊的にどこを強調することが神様の願っている事かと再確認します。講義をする時、天が願う神霊と真理が受講者に正しく伝えられるようにと思い準備し、決してマンネリ化した講義はしてはいけないと心に決めて壇上に立ちました。
そのような姿勢は私が全国を巡回し巡回師となって説教をする時も初期に文先生から教えられた姿勢を守れるようにと歩んで来たように思います。講義が終わると内容がどの様に受講者に伝わったのかを反省し、講義の内容と私の心情をより精査し、次に備えることの繰り返しで歩んできました。
相手に正しく理解してもらうことは常に願って来ましたが一度たりとも相手をどのようにしたら洗脳でき、会員にするかなどと考えて講義を行ったことはありません。
『洗脳とは、強制的な心理操作によって相手の自由意志や判断力を奪い、思想・価値観・行動を支配者に都合よく作り変える行為を指します。恐怖・孤立・情報遮断などが組み合わされ、本人は「自分の意思」と信じ込まされる点が特徴』と辞書に書かれています。


